書評『Virtue Signaling』その1

Kindle PaperWhiteをお風呂で読んでいたら誤作動をするようになった。具体的にはゴーストタッチが頻発するようになった。どうやら水が中に入ったようだった。しばらく放置して、水分を蒸発させるのが良さそうだ。多湿環境になりつつある日本においては、脱湿には冷蔵庫を使うとよいというフォークロアがある。フォークロアの定義から、誰から聞いた話か、私は思い出せない。

まえがき

さて、今日から数回、ジェフリー・ミラー(Geoffrey Miller)の『美徳シグナリング』(Virtue signaling)を紹介する。『美徳シグナリング(様々な訳があり、例えばShoreBird氏は徳シグナリングと書いている)』とはやや聞き慣れない言葉だが、極めて雑にいえば、低コストで「自分は倫理的だ」と言える行動のことだ。具体例としては、Facebookでアイコンの横に国旗をつけて見たり、Twitterのハッシュタグで政治的なムーブメントに同調したりする、ということがあげられる。この本は、進化心理学者のジェフリー・ミラーが自分の博士課程から現在までに、どのような研究をして、そこからどのような――美徳シグナリングと関連する――知見を得たかを説明している。

本ブログでは、各章のざっくりとしたまとめの後に、私が個人的に思うことを少し書くことにする。

美徳シグナリング:Preface

この章は本のイントロとして機能している。Millerはまず「美徳シグナリングはある」というところから始めている。ないかのように振る舞うのはやめよう。我々は人間で、人間はモラリティのあるところを自慢したがるものだ。石器時代から美徳を見せつけ、現代でも倫理観のあるところを見せびらかし、火星にいっても美徳シグナリングをするだろう。人が宇宙に植民するとき、美徳シグナリングも植民するのだ。

その後、Miller自身による略歴紹介が始まる。

両親(父はコロンビア大学出の弁護士、母はLeague of Women Votersの世話役)は車にステッカーなんて貼らずに粛々と政治的活動をしていたとか、それは見せびらかしなどはなくてとても素晴らしかったということが書かれる。彼の大学時代には、レーガンが大統領選挙に出馬したことで、大学に反レーガンの風が吹き荒れたことが語られる。当選したらヤバいことになると、現在のトランプばりにたたかれまくり、大量の学生たちが車にステッカーを貼りまくったり、抗議集会を開きまくったと語られる(もちろん、保守の学生もいた)。

Millerはその後、スタンフォード大学で大学院生活を送り、デートした女性との関係を通じて、美徳シグナリングについて理解を深める。曰く、

These brilliant and otherwise open-minded women showed a visceral disgust at evolutionary reasoning applied in any way to the study of human nature.

(人間の性質の研究に対して、どんな進化学的な議論をやろうとも、それ以外の場面ではかなり柔軟で聡明な女性たちでもマジでムカついているのを隠そうとしなかった)

ということだ。人間はBlank Slate(タブラ・ラサ:人間は全くの白紙で生まれてきて、教育によって『まっすぐ』育てられる)ではないということが、当時の人には受け入れられなかったし、やもするとナチの優生学扱いをされた。

このようなことがあり、大学院以降、Miller美徳シグナリングの特徴としての道徳的偽善に興味を持ち続けた。Millerの洞察は「Xについて語っているが、結局、Xをサポートすることはしない、というのが美徳シグナリングである。これは偽善的行為で、偽善は悪いので、美徳シグナリングは悪い」というところをさらに推し進める。この解析のツールとして役立ったのが進化心理学・ゲーム理論などである。

Millerはここで、美徳シグナリングについては二つの種類があると言う。一つはCheap talkと経済学者が言う類いの行いで、これは非常に簡単で、経済的なコストはかからない。例えば、SNSの投稿とか、Tinderのプロフを変えるとかだ。このシグナルが『信頼できる』というのは、それが経済的にではなく、社会的なコストをかけさせるからだ。つまり、MAGA(Make America Great Again)の帽子をかぶることは、そんなにお金はかからないが、友人が一人減るかもしれない。

一方で、非常にコストがかかり、偽造するのが難しく、その根底にある価値や特性の信頼できる表出として機能する美徳シグナリングもある。例えば、何ヶ月もボランティアをやるとか、そういうのだ。これが信頼できるのは、このシグナリングが本当に信じていなければ続けられないようなものであるという事実による。

ここから、Millerが自著Mating Mindで出会った『よい』美徳シグナリングをする人の話を始める。そこでは(前に述べられたものは違って)素晴らしい人格の人がいたし、彼らが行う美徳シグナリングは、決して批判されるようなものではなかった。つまり、美徳シグナリングは最もよい人間の本性も含むし、最も悪い部分も含むと言えよう。『最も』というのは誇張ではない。なぜなら、遺伝子進化のような盲目的で無情なプロセスから合理的に期待できる、見知らぬ人間に対する道徳のための、最高の基盤が美徳シグナリングだからである。

もちろん、遺伝的に似通っていない他人を助ける(利他性)を獲得する/させる進化生物学的な議論は困難であるが、Millerは前著(Mating mind)において、性選択(雄と雌がお互いをえり好みする)と社会選択のための美徳シグナリングが人が血縁関係を超えた領域まで利他性を持ちうる唯一の基盤だと議論した。

最後に、Millerは『よい』美徳シグナリングと『悪い』美徳シグナリングを分けるものは、それが信頼できるコストをかけているかではないだろうと言う。それは美徳シグナリングが何と結びついているかであり、好奇心や柔軟さ等々と結びつけばいい結果になるだろうし、そうでなければ悪い結果になるだろうと述べている。

続く章は、Millerが書いた文章と、それが書かれた背景についての説明が7本載せられている。

個人的に思うこと

いろいろな点がかなり『Preface』という感じがする。個人的にも、確かに、社会運動を(カントのいうような)エチカに基づいて見るよりも、美徳シグナリング、そしてそれを形作る性選択・社会選択の観点から述べる方がより現実に即していると考える。

何が『よい』シグナリングであるかは、シグナリングがCheapかそうでないか・シグナリングがどう形成されているかではなく、そのシグナリングとは切り離されたものに依存する、というのも組み方としてはよいと感じる。こうしておけば、シグナリングそのものには価値判断や、道徳的な善(というものが仮にあったとして)の議論が絡んでこないからだ。

一方で、『Preface』だけあって、やや議論が早い部分が多い。特に、美徳シグナリングが血縁関係を超えた部分にまで波及するという点は、より明確に論証するべきところだろう。

安直に考えれば、あまり血の繋がっていない他集団の構成員の利益になる行動をするのは割に合わないし、それで『女にモテて相手集団より優位に立てるから』というのはあまりにも議論が雑すぎる。

もう少し深く考えても、ある制約条件――例えば、美徳シグナリングを促進する遺伝的要素が、自分にもたらす適応度の方が、集団の他の遺伝的エレメントに与えるそれらの和よりも大きい――の下で、美徳シグナリングが選択されていくというのも、ひっきょう、不等式が成立するかしないかという議論であり、これはかなり難しい。我々は美徳シグナリングが成立しているから、この不等式も成立しているのだといいたいわけではないからだ(もちろん、この推論は誤った推論である)。

したがって、『美徳シグナリングは利他的な形質であるが、性/社会選択によって選択される』という命題はかなり強い主張であり、かなり厳密な取り扱いが必要になる。あたしゃこのPrefaceはだめだと思うね。

突然、さくらももこ作品へのオマージュが入ったのはいいこととして、この選択様式が唯一の基盤である、というのも相当に大胆な主張である。**[今から文化的背景を持ち出した差別的意見が訪れる]ここら辺はアメリカ人にありがちな、「おれの理論マジですごいから、マジ無敵。マジ正しい。ていうか真理」みたいなノリを感じる。多分唯一ではないんじゃないだろうか。[文化的背景を持ち出した差別的意見の終わり]**もうちょっとちゃんと論証してほしい。

美徳シグナリングが『よくなる』のは、どういう形質と絡みついたときか、という場所もなかなか不満足だ。間違っているわけではない。単に私は同意しないという意味で、不満足だ。個人的には(これはブログだ。個人的な意見を言って何が悪い)、『よい』というのはあくまでも主観的なものであって、『楽園追放を見れば人間が知能を持ったことが間違いなのは明らか、野で暮らすのが善』みたいな価値判断もまああるにはあるだろう。もちろん、私も道徳的価値判断とやらをしているので、善の概念をすべて放擲しているわけではないのだが。

特に、Twitterを名指しで『悪』のほうに置くのはやや不賛成なところだ。事実として、Change.orgやTwitterのハッシュタグのように、『たくさん集まると実効的になる』Cheap talkは多くあり、それに参加している人は単に美徳シグナリングをしているものの、結果としては女性人権運動的なところのアチーブメントを一つ達成したようなものもある。

これは余談だが、

She didn't mind that I ate beef myself -- as long as I stopped eating chicken (too much suffering per pound of meat, compared to cows)

という記述がやや興味深い。昔、インドからの留学生と食事をしたとき(その人はビーガンだった)、鶏肉の方が単位量あたりのエネルギー消費量と環境破壊度を見ると、鶏肉の方が牛肉よりも小さいという理由から、私には肉を食ってもいいが、できるだけ鶏肉を食べろといっていたのだ。ここは道徳的な価値判断と、経済・環境的な価値判断のどちらに重きを置くかの問題だが、私からすれば、後者の方が理にかなっているように思える。南にせよ、前者の立場をとった場合、パンは植物体の大量虐殺に他ならず(痛覚の議論に付き合う気はない)、鶏卵を食べないことのまともな合理性というのもやや怪しくなるからだ。まあ、私のような雑食は、どちらの極から見ても屠殺対象であるからにして、私はこのあたりでこれについて語るのはやめる。